第1回きたまちまち歩き

雑事に日々追われ、お書きするのが遅くなりましたが、9月17日、北町旧跡研究会主催の「第1回きたまちまち歩き」が行われました。

店のある、練馬区の北町には、宿場であったことで、町に、手つかずの、いろんな旧跡が埋もれています。

この研究会の会議は、店の1番忙しい時間帯に行われているので、いつも出られないのですが、夏に打ち水を3商店街で長く連携して行ってきたことから発展して、その3商店街はもちろん、地域の3町会の有志の方々が連携して、地域の活性化のために、集まってできた貴重な研究会なので、僕も出来る限り、知恵を絞って、後方支援をしたいと考えています。

なお、今回、このまち歩きを再現するにあたり、お読みいただく皆さんに、少しでもその様子を感じていただけるような形で、お書きすることにしました。どう書くかも含め、悩んだ結果が、以下、こんな感じになりました。

すでにご参加されているメンバーの方の内容も振り返りつつ、気軽にお読み下さい。

当日は天気にも恵まれ、午後1時に、浅間神社に集合。

小学生と保護者の皆さんを、研究会の皆さんが一緒に歩き、「宿場・下練馬」の名残を案内していきました。

店の合間、出発前の皆さんお集まりの浅間神社にお邪魔しましたが、僕の姿を見つけた研究会の事務局の方からうながされて、ガチャガチャをして、移動式のタバコ屋さんの缶バッチが当たりました。

程なくして、研究会の方による出発前の挨拶が始まり、皆さん元気に、きたまちまち歩きをスタートして行きました。

店に戻り、僕の代わりに、店で働いてくれているアルバイトの男の子を急遽、追いかけて、参加してもらうことにしました。

なお、簡単に、当日配られた資料の一部から、主要なポイントを紹介していきます。

・浅間神社(せんげんじんじゃ)  https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=13

 木乃花開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)を御祭神とする神社です。ここには、富士浅間大社から御分霊した下練馬の富士塚があります。丸吉講によって築かれた塚は、とても立派です。よく富士塚には猿の像が狛犬のように建っていますが、どうしてだか知っていますか?
猿は富士山の神使いとして浅間教では捉えられているため、山岳等に建てられることが多いです。天狗は、小御岳神社で権現として捉えれれています。 富士塚 → 高さ5m、径15m

・北町聖観音座像(きたまちしょうかんのんざぞう) https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=107

 区内最大の石仏。像の高さは107㎝。台座を含めると270㎝。区指定の有形民俗文化財。

 北町観音堂
 天和2年(1682年)銘の「北町聖観音座像」をはじめ、馬頭観音や庚申塔などの数多くの石造物があります。
江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文「遊歴雑記」にも文化12年(1815年)にここを訪れたと記述があり、往来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印となっていたことがわかります。今でこそ町の真ん中にありますが、こういう観音像や石像・石仏の類は村に災難や厄病が入って来るのを防ぐ意味から村はずれや境界線近くに建っている場合が多いので、かってはこのあたりが下練馬村の村はずれだったかもしれない。

・阿弥陀堂(あみだどう)     https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=65

 千川家の墓
 千川上水は、本郷・下谷・浅草方面の飲料水として元禄9年(1696年)に玉川上水から分水された水道です。
設計者は河村瑞軒(1617年~1699年)と伝えられ、仙川村出身と伝えられる。徳兵衛、太兵衛の2人が工事を請け負いました。分水口から巣鴨までの費用は1千340両余りを要し、幕府が支出したのはこのうち860両余りにすぎませんでした。そのため、2人は私費を投じて工事を成し遂げました。
徳兵衛、太兵衛両人は、その功によって千川の姓と帯刀を許され、その子孫は代々千川上水の取締役を務めました。この千川家は、3代源蔵の時に下練馬村(現在の北町2丁目)に移り住みました。

・徳川綱吉御殿跡(とくがわつなよしごてんあと) https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=66

 綱吉の碑
 徳川綱吉は、第5代将軍で第3代将軍・家光の四男。将軍になって「生類憐みの令」を発し、殺生を禁止した綱吉が藩主の頃には鷹狩りをしていたというには面白い。

・本陣(ほんじん)          https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=32

 本陣とは、江戸時代以降の宿場で、旗本・幕府役人・宮・門跡などが使用した宿舎の名称。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味で「宿屋の一種」とは言えない。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては、脇本陣があった。

・大山道道標(おおやまみちどうひょう)     https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=92

 川越街道から南西に富士山や丹沢の大山にお参りするための道、富士大山街道の分岐点。環八ができたため8メートル動いた。

 なお、大黒屋さんで休憩して、たい焼きやかき氷をごちそうになりつつ、他に、田端屋さん、裏に弁天宮があり、8月の七夕に「ちがや馬」が奉納される、その手前にあるたねやさん、内田呉服店、「けらや」と呼ばれていて、鷹のえさを扱っていた大久保ビル、それと、魚屋の松本さん(「かどや」)も見て回りました。

・ちがや馬        https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=34

・けらや          https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=97

また、王子に行く道で、道路の真ん中にあるのは珍しい、馬頭観音、それと、スカイツリーと富士山が同時に見えるとカップルが結ばれると噂の板橋練馬ふれあい遊歩橋、それに、有山さんのマンションで、映画館のあったところや、ユータカラヤの駐車場あたりに街頭テレビのあった場所や元は反対側にあったという梅本屋さんの前を通り、浅間神社に無事戻りました。

・北町1丁目の馬頭観音 https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=73

・街頭テレビ         https://kiitan.com/modules/gnavi/index.php?lid=47

今回、旗を持って案内役をして下さった清野さんは、前日奥さんと2人で2時間も今回のコースを下見をして歩いてくれただけに、充実した内容の「第1回きたまちまち歩き」となりました。

配達の注文が入ったため、店の男の子の参加は、田端屋さんあたりまでですが、当日の写真の一部、チラシやルートマップはこちら。

http://www.kitamachi.or.jp/media-room-p157.htm

ぜひ、皆様、北町の昔に注目して、昔話に想いをはせるのも、時に、いいかもしれません。

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