今の代では開けたことがない「こおり」があります。
5代前(明治初期?)頃、西台から移住
はじめは、藍染め屋をしていたので藍屋(こうや)と呼ばれました。
家の脇に東上線の引き込み線が走っていました(SL)。
店部分は奥の機械を置いている空間が明治からで、店の手前部分が大正に日光の杉一本を横梁に使用し、関東大震災にも耐えました。
3年前、精米機を新調、30年以上使った方は記念にとってあります。
コメント:30年程前に店前にプラッシーの自動販売機を置いていました。個人的にはマリンカの方が好きでした。栓抜き内臓で、その栓を回収するのが子ども心に楽しみでした。
西台の野瀬と今神(現:錦町)の加藤家と夫婦になり、窪玉さんの土地を購入、家をかまえました。
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野瀬米店の御夫婦
“くぼったま(窪溜?)”付近の米屋さんだが、(御主人は加藤源蔵家系?とか???加藤源蔵の長男?孫?は足立と同じ年で共通の友を介して遊んだ時期があった。屋号は“藍カメ屋”もとは紺屋つまり作業着用の藍染め屋だとの事。
戸が未だに硝子戸なのだが、圧巻は広い間口の梁が一本の杉丸太なのだ。大正時代に親爺さんが日光から運んだと言う。土間の梁も分厚い一枚板で更に古い時代どうやって運び、どう上げたものか相当な重量であろう。
さらに精製場に入り上を見上げると、梁に曲がったままの丸太がダイナミックに組み込まれており此れこそ一見の価値がある。
脇の駐車場にかかるように、上板橋駅からの引き込み線「啓志線」線路跡がある。
現在の自衛隊、北町小学校が日本軍の物資倉庫であり、さらに光が丘の飛行場建設のための引き込み線であったという。
足立も小学校の頃、寄り道をして道路端の切替え機で遊んだ記憶あり。
[22/9/11 by Z&A]