明治42年創業呉服「梅本屋」94歳の御祖母ちゃんの話
現在の店は創業100年。店を買い取る前は小料理屋であった。屋号は、“がんくま”さんだが、多分頑固な熊さんだったのではないか?“あかし屋”さんの前には火の見櫓があったが以前は神社だった。現在の種屋さんの向こうは竹山で弁天様があった。その向こうに“鍛冶屋”白石さんが農機具(なんでも屋に近い)を売る店があった。その向かいの窪地の家は“窪玉”さんと呼ばれていた。
板橋の(現在のSB通り)郭に通う“ひやかい通り”があり角の農家を“ひやかい”さんと呼ぶ。『お女郎さんを冷やかしに行くのかい?』『冷やかしかい?』
どうやら先の馬頭観音を斜め右、板橋本町へ向かったようだ。
関東大震災では、あまり被害は無かったものの数日は怖くて裏の竹藪で寝た。一つ違いの野瀬米店の娘は、蔵の中にいたが揺れが激しくて楽しくなり笑って叱られたという。
大戦終了間際は、商店街の向側に焼夷弾が落ち6軒程が燃えた。
田柄川はきれいで所々堰き止めたところで男の子たちは泳いでいたし、着物の反物は別として旗や暖簾の染め物は川で洗っていた。
[22/9/11 by Z&A]
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