阿弥陀堂の一番奥の左手に、千川家の墓がある。江戸時代、玉川上水ができ、その後、本郷・下谷・浅草方面の飲料水として元禄9年(1696)に玉川上水から分水され、練馬に千川上水がひかれた。途中、幕府の財源が足りなくなってしまったが、千川家が私財をなげうって完成させた。 設計者は、河村瑞軒(ずいけん)(1617~1699)と伝えられ 北町には、田柄川が流れていたが、水量に乏しいため、千川上水から田柄川を引いた。水を引いてくるということは、北町には、人も財力もあったということがいえる。戦争で成増に飛行ができたりしたため、水が途絶え、時代とともに必要もなくなってきて、埋め立てられた。 田柄川も魚がいたり、泳いだりできたきれいな川だったが、生活用水が流れ込んだりしたため、汚れ、雨の度に氾濫したため「やっかい堀」と言われ、暗渠化された。 【千川家の墓】 徳兵衛、太兵衛(たへい)の2人が工事を請け負った。分水口から巣鴨までの費用は、1千340両あまりを要し、幕府が支出したのはこのうち860両あまりにすぎなかった。そのため、2人は私財を投じて工事を成し遂げた。 徳兵衛、太兵衛の2人は、その功によって、千川の姓と帯刀を許され、その子孫は、代々千川上水の取締役を務めた。この千川家は、3代源蔵の時に下練馬村(現在の北町2丁目)に移り住んだ。
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